くまもと表の歴史(熊本県)

●国碑又は古文書によると、仲哀天皇(人皇第14代)の御代といわれ、神功皇后が熊襲征伐の帰途、現在の岡山県都窪郡庄村の高島居山において、野生のいぐさで莚を織らせ「御座」にあてられました。この言葉が転化して茣蓙(ござ)となったと伝えられています。いくぶん神話めいてはいますが、岡山県の金蔵山古噴、王暮山古噴から出土した鉄器、木片にござの形が残っています。●熊本県のい業は、興善寺城(八代市竜峰)城代相良伊勢守の与力であった岩崎主馬忠久公が、現在の八代郡千丁町大牟田の上土(あげつち)城主になられたおり、領内の古閑淵前に永正2年(1505)露月に、いぐさを栽培させ、製織を奨励したことが始まりとされています。●宝歴年間(1750)細川霊感公が、栽培と製織を大いに奨励された記緑もありますが、明治維新前までは「お止草」として、大牟田、新牟田、上土、新開、下村の旧5ケ村に限られていたようです。●大牟付表、八代表、肥複表と変遷しながら、幾多の苦難をのり切った先阻の汗と脂の賜が、現在の「くまもと表」に成長しました。