日本人と畳

日本の文化は、古来、中国大陸からの伝承をもとにしたものが多いのですが、畳は大和民族の生活の知恵が生み出した固有のもので、湿度が高く、気象の変化が激しい日本の風土に、最も適した敷物として育てられ、継承されてきました。 瑞穂の国にふさわしく、稲わらを利用Lて床をつくり、野生のいぐさを改良して畳表を織り、畳という素晴しい敷物をつくりあげたわけです。 明治以来の急速な西欧に向った文明開花の時代にも、戦後の激しい石油文化の発展の中でも、畳は日本の住いの中心的役割を果たしてきました。 これは、科学の進歩で優秀な化学繊維が、次々に登場してきたにもかかわらず、畳のもつすばらしい特性には対抗できなかったからです。海も山も、化学文明に追いつめられて、安らぎを欠く今日、自然の安らぎがあなたに帰ってくる畳に、自然を問いかけてみませんか。 旧漢字でたたみを「疊」と書きます。これは田圃からとれる稲わらを交互に積み重ねたとの意味があります。

畳の歴史

●「古事記」に倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の際、弟橘姫(わとたちばなのひめ)が入水のくだりに「海に入らんとするときに、菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を波のうえに敷きて、その上にくだりましき」とあり、また神武天皇の御歌にも「あし原のしけき小屋にすが畳いやさやしきて我二人ねじ」ともあります。 古来畳が敷物として使われていることがわかりますが、この頃は、現在の莚(むしろ)のようなものであったと思われます。●現在の畳の形式をとるようになったのは平安朝時代で、当時は「厚畳」と呼ばれ、円座、莚等と区別れ、高貴な方の敷物で、身分によって畳の大きさ、縁の生地、色を違えていたようです。●天皇、上皇等の最高位の人々は、幅9尺(273cm)、長さ16尺(485cm)の大きな畳に縁は玉虫網の繧繝緑。 下位の「六段になると、座ぶとん位の大きさで縁も黄色一色であったようです。これらは当時の絵巻物に描かれており、「北野天神縁起」には菅原道真の政敵藤原時平が厚畳に臥しているさまも描かれています。●身分による畳の差別は、江戸時代中期まできびしく残り、明治維新後、新政府になってはじめて畳の使用、縁の種類等も自由になりました。

くまもと表の歴史(熊本県)

●国碑又は古文書によると、仲哀天皇(人皇第14代)の御代といわれ、神功皇后が熊襲征伐の帰途、現在の岡山県都窪郡庄村の高島居山において、野生のいぐさで莚を織らせ「御座」にあてられました。この言葉が転化して茣蓙(ござ)となったと伝えられています。いくぶん神話めいてはいますが、岡山県の金蔵山古噴、王暮山古噴から出土した鉄器、木片にござの形が残っています。●熊本県のい業は、興善寺城(八代市竜峰)城代相良伊勢守の与力であった岩崎主馬忠久公が、現在の八代郡千丁町大牟田の上土(あげつち)城主になられたおり、領内の古閑淵前に永正2年(1505)露月に、いぐさを栽培させ、製織を奨励したことが始まりとされています。●宝歴年間(1750)細川霊感公が、栽培と製織を大いに奨励された記緑もありますが、明治維新前までは「お止草」として、大牟田、新牟田、上土、新開、下村の旧5ケ村に限られていたようです。●大牟付表、八代表、肥複表と変遷しながら、幾多の苦難をのり切った先阻の汗と脂の賜が、現在の「くまもと表」に成長しました。

びんご表の歴史(広島県)

広島県で生産されるびんご畳表は天文、弘治(1532-57年)の頃、山南村(現在の広島県沼隈郡沼隈町)で水田にい草を栽培して引通表を織ったのが始まりです。慶長5年頃(1600)には長各川新右衛門が短いい草を利用した中継表を考案して畳表の量産を可能にしました。時の芸備の殿様福島政則公は、近郷に代官を派遣して中継表の製繊技術をひろめました。後の水野、松平、阿部の福山藩主もびんご畳表を備後の国の特産品として保護奨励し、品質管理にもきびしかったので、早くから宮中や幕府の御用表や献上表の指定銘柄となって、年と共に名声を博し名実共に不動の地位を築き上げまた。

Q:畳に、ふつうに電気掃除機をかけてもいいの?

A:電気掃除機は強くかけると畳表を傷つけますので、畳の目に沿って軽く触れる感じでゆっくりとかけてください。

Q:梅雨時期にカビが生えちゃた。どうやって取ったらいい?

A:アルコールまたは焼酎など蒸留酒(醸造酒は逆効果)を布にしみ込ませてこまめにふき取ってください。アルコールは殺菌力があるのでカビを抑える効果があります